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更新日:2024年5月24日 公開日:2017年2月13日

【ヨウジヤマモト】デザイナー。 日本のカリスマ、山本耀司とは?

世界的評価を受けるヨウジヤマモト。慶應義塾大学、文化服装学院を卒業という異色の経歴。黒を基調としたデザインと独特のサイジングでの表現で世界のファッション業界に革命をあたえました。日本ファッションの伝説のデザイナー山本耀司の略歴とその魅力に迫っていきます。

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ヨウジヤマモトとは?

山本耀司が設立したファッションブランド。日本人デザイナーで唯一フランスの芸術文化勲章「シュバリエ」を受賞。81年のパリコレで、ファッションプレスには”貧乏主義”と評された黒を基調とした表現で衝撃を与えると、たちまち世界のファッショニスタを、そのヴィジョンで魅了していきました。1943年、東京生まれの現在80歳。オーダーメイドの洋装店を営む母のもとで育ち、慶應義塾大学法学部を卒業の後、文化服装学院を卒業。

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出典:thecasual.co

ミシンとアイロンに囲まれた幼少期

戦争未亡人の一人息子として貧しい環境で育ったことが原点ですね。ミシンの音とアイロンの匂いのなかで、一所懸命働いている母親を通して世間を見ていました。そこから反骨心が生まれたんだと思います。

このように語る山本耀司は、洋裁店を営む、戦争未亡人の一人息子として東京の新宿で生まれました。彼の幼少期は、ミシンの音とアイロンの匂いが漂う環境で過ごしました。母親の冨美さんは、家計を支えるために洋裁を生業としており、その姿を間近で見て育った山本氏は、アイロンの匂いとミシンの音が大嫌いだったそうです。

幼少期から絵を描くことが好きだった耀司は、やがてその才能を開花させました。中学や高校時代には、漫画をたくさん描くことで創作意欲を満たしていました。特に高校時代には、ファッション・イラストレーターの長沢節が主催する絵画教室に通い、その才能を磨いていきました。絵画教室での経験は、彼の芸術的な感性をさらに高め、東京藝術大学に進学することを真剣に考えるほどの影響を与えました。

しかし、山本耀司の幼少期は決して平穏なものばかりではありませんでした。彼は喧嘩っ早い性格で、周囲との衝突も絶えませんでした。これは、生まれ育った町である歌舞伎町という環境が深く関わっています。米兵との喧嘩にまで発展したこともあるほど、その尖った性格は顕著でした。こうした経験が、後の彼のデザインや生き方にどのように影響を与えたのかは想像に難くありません。

山本耀司の幼少期は、家庭環境や彼自身の性格、そして絵に対する情熱など、多くの要素が絡み合ったものでした。これらの経験が、彼をファッションデザイナーとしての道へと導いたのでしょう。

モラトリアム。バックパッカーだった慶應大学時代

大学に入って以降は、好きに生きてきました。大学は慶應義塾だったんですが、周りにいるのが2代目とか3代目ばかりで、みんな豪邸で暮らして将来も約束されている。あまりにもスタートラインが違うから、社会に出る気がまったくなくなったんです。しばらくはバックパッカーとして世界を放浪していました。

出典:gqjapan.jp/
慶應大学時代は同級生があまりにもお金持ちが多く、社会に出る気がなくなってしまったそうです。卒業間近でも職探しをする気になれず奨学金で海外旅行に。オランダ・ドイツ・パリをバックパッカーとして放浪していました。帰国後は母親が営んでいた洋裁店を手伝おうとしたところ、「何のために大学に行かせたの?」と激怒されてしまいます。でも、もし洋裁の世界で生きるのならということで、文化服装学院に入学をします。このとき山本耀司は、「慶應を卒業するころもとにかく腹を立てていて、未来になんの希望もなかったので、執行猶予の時間がほしかったから」とインタビューで語っています。

文化服装学院に入学後、文化出版局が発刊するファッション雑誌「装苑」の歴史あるファッションコンテストである「装苑賞」と優秀な学院生に贈られる「遠藤賞」のダブル受賞を果たします。ブランドを立ち上げる前から彼のファッションの才能は認められていたのです。

山本耀司 装苑賞

出典:seizenfuku.com

特に遠藤賞の副賞として与えられたパリ往復航空券は、山本耀司のキャリアにとって重要な転機となりました。当時のパリのファッション業界は、オートクチュールからプレタポルテへの移行期にありました。そのため、文化服装学院で習ってきた注文服の手法が通用せず、山本氏は大きな衝撃を受けたのです。「これからはプレタポルテの時代だ」と確信し、自身のブランド立ち上げに奔走することになります。

東京コレクション、パリコレクションデビュー

1972年に株式会社ワイズを設立して、1977年東京コレクション、1981年パリコレクションにデビューします。パリコレでは、当時タブー視されていた、反抗を意味する黒を基調とした衣装を展開して、賛否両論の大きな話題となりました。当時、ともに海外進出をしていた川久保玲のコムデギャルソンと一緒に全世界のファッション界に革命と大きな反響を起こしました。

あえて「体の線を出さない」、「体と衣服の間に空間を作り利用する」ことによって体の動きに合わせて衣装が変化する、という独特のスタイルで徐々に世界中にファンを増やしていきます。

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「「反骨精神」山本耀司のファッション哲学」

山本耀司のファッション哲学は、その独特な反骨精神と独自の視点に強く基づいています。彼のデザインの根底には、社会や時代に対する疑問や反対意見が込められており、これが彼の創作活動の原動力となっています。

山本は、「流行の大通りではなく脇道を歩こう」と決意し、トレンドに迎合せず、自らの道を貫いてきました。彼は「社会の流れに対する疑問や反対意見を叫び、吐き出すことが僕の作りなんです」と語り、その姿勢を一貫して貫いています。

山本がデザイナーとしてのキャリアをスタートした当時、日本の女性たちはフランス製のカラフルで身体のラインを強調するゴージャスな服を好んでいました。これに対し、山本はそのような服装に飽き飽きしており、女性をより魅力的に見せるためにはどうすればよいかを考えました。そこで彼は、メンズの服を女性向けにアレンジし、その魅力を引き出すために黒を基調としたデザインを採用しました。「なぜ女性がメンズの服を着ているとよりセクシーに見えるのか考えてみてほしい」と彼は問いかけ、その答えを探求し続けています。

山本耀司は、男性として女性を愛し、尊敬する気持ちから女性のための服をデザインしています。彼は、「女性には永遠に女でいてほしい。妻や母親という肩書がついたとしても、それを取り払ってずっと女でいてほしい」という願いを持っています。この願いが彼のウィメンズウェアのデザインに反映されており、女性が自分自身を表現し、常に女性らしさを保つことができる服を提供しています。彼のデザインは、女性に対する深い理解と敬意から生まれており、これが彼の作品を特別なものにしています。

一方で、メンズウェアに対しては異なるアプローチを取っています。山本は、「メンズの服は、『これ着ようぜ、なっ』みたいな感じ」と語り、男性に対してはよりカジュアルで直接的なアプローチを採用しています。彼は、男性が社会の規範に縛られず、自由な精神を持つ「何者だかわからない」男たちであることを願っています。彼のメンズウェアは、ダンディでありながらユニークでコミカルな要素を持ち、男性の個性を引き立てるデザインとなっています。

山本耀司のファッション哲学は、彼の反骨精神と独自の視点を通じて、常に革新と挑戦を続けています。彼のデザインは、単なる衣装ではなく、着る人の生き方や価値観を反映するものだとわかりますね。

北野武など幅広い交友関係

北野武やドイツ人映画監督のヴィム・ヴェンダース、そしてダンサーのピナ・バウシュなどがヨウジヤマモトのファンで、個人的な交友関係があることが有名です。

北野武の映画「BROTHER」「アウトレイジ」などでも衣装はヨウジヤマモトが提供していたり、YMOの高橋幸宏とも長年の付き合いでパリコレでのBGMを依頼していたりと、交友関係の延長でのコラボレーションが多数生まれています。

北野武映画のDOLLSは、映画の世界観の中での衣装表現が大絶賛されており、映画と衣装が織りなす雰囲気やコンセプトが魅力的であると大きな話題となりました。(菅野美穂が着る赤いドレスが特に有名ですね!)

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出典:blog18.fc2.com

経営破綻とそこからの復活

ヨウジヤマモト社の経営破綻

2009年ヨウジヤマモトが債務超過により、経営破綻をしてしまいます。負債総額約60億円でした。ファストファッションが人気となり、若者などがファッションにかけるお金が減少していました。そういった世の中の風潮もあり売上が減少していく一方で、引き続き大量生産で安価な商品は販売せず、海外に新規出店をし続けていくなど、強い意志と攻めの姿勢を貫いたことが経営状況の悪化を招いたのかもしれません。

投資会社インテグラルの支援により事業を継続することとなり、ファッションデザイナーとして活躍を続けています。

フランスで再度表彰を受ける

2011年にフランス芸術文化勲章「コマンドゥール」を受賞します。フランスで民間人が対象となっている最高位の勲章で、1994年に受章した受賞したフランス芸術文化勲章「シュパリエ」に引き続きとなっています。

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出典:ambafrance-jp

最後に

仕事中にぶっ倒れたいと思っているだけで、長生きとかって念頭にないですね。

ブランドのデザインだけでなく、インタビューなどで見せる独特の表現と溢れ出る熱いかっこいい男としての気迫が、人々を魅了してたくさんのファンを生み出しているのかもしれません。日本のファッション、世界のファッションに革命を起こした男、山本耀司には引き続き注目です!

関連記事「山本耀司、川久保玲、三宅一生|日本のファッション界の革命児3人」も要チェックです。

西暦 年齢 イベント
1943 0 東京都に生まれる
1966 23 慶応義塾大学法学部卒業
1969 26 文化服装学院卒業
1972 29 株式会社ワイズを設立
1977 34 東京コレクションにデビュー
1981 38 パリ・プレタポルテコレクションにデビュー。同時にYohji Yamamotoを開始
1984 41 株式会社ヨウジヤマモト設立
1989 46 ヴィム・ヴェンダース監督映画「都市とモードのビデオノート」に出演
1994 51 フランス芸術文化勲章「シュバリエ」受章
1999 56 坂本龍一によるオペラ「LIFE」の衣装を担当
2001 58 北野武監督映画「BROTHER」の衣装を担当。以後の北野作品には全て関わっている
2002 59 パリ・オートクチュールコレクションの期間にプレタポルテを発表
2002 59 Y-3ラインをコレクションデビュー
2004 61 紫綬褒章受章
2005 62 経済産業省より「日本ブランド創造貢献企業表彰」受賞
2005 62 フランス芸術文化勲章「オフィシエ」受章
2006 63 英国ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ名誉ロイヤル・デザイナー・フォーインダストリー受章
2008 65 北京の故宮・太廟にてY’sのショウ開催
2008 65 中国友好和平基金のもと山本耀司和平基金を設立。ロンドン芸術大学、名誉博士号授与
2008 65 ヨウジヤマモトのパリ カンボン旗艦店オープン
2009 66 4月30日付け代表取締役辞任
2009 66 10月8日(株)ヨウジヤマモト民事再生法の適用を申請。負債60億円[4]。
2009 66 12月、新(株)ヨウジヤマモトが旧会社から事業譲渡を受け再創業
2010 67 東京で19年ぶりにメンズコレクションを発表
2011 68 英国ヴィクトリア&アルバート博物館にて「ヨウジヤマモト展」開催
2011 68 フランス芸術文化勲章「コマンドゥール」受章
2014 71 RIZZOLIより「Yamamoto & Yohji」刊行
2014 71 「レアル・マドリード」のサードユニフォームをデザイン
2015 72 「アディダス”ローラン・ギャロス コレクション バイワイスリー(adidas”Roland Garros Collection by Y-3)」発表
2016 73 「ワイスリー(Y-3)」がヴァージンギャラクティック社(Virgin Galactic、以下VG社)との協業を発表

出典:wikipedia.org

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